無気力絵描き通信

ゆ〜ほのブログです。

天気の子 陽菜さんはイエスキリストなんじゃないか【ネタバレ考察その1】

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©2019『天気の子』製作委員会

 

こんにちわ!
観てきました!「天気の子」!新海誠監督が大好き!ではぜんぜんないんですが、今回の作品は新海誠監督の作品の中で結構好きでした

個人的には「君の名は」より面白かったです!「君の名は」もおもしろかったけど!ていうか考察進めてたら、傑作なのでは、、、?となってきました。

 

 

以下僕の「天気の子」考察もとい個人的妄想と感想です

作品は人によって捉え方、感じ方が違うことが面白いと思っているので、こうに違いない!という考察ではなく、個人的に「こうだったらいいな〜」「勝手にこう解釈したらおもろいな〜」と言う妄想なので悪しからず 

 

あといろいろ考えてたらすごい文章量になったので二回に分けます。

 

 

ヒロイン・陽菜とチョーカー

晴れ女のヒロイン・陽菜ですが最初の病院シーンで廃ビル屋上の神社に祈ったから晴れ女になったような感じですが、おそらく彼女を晴れ女たらしめている部分はチョーカーの飾りなんじゃないかと

 

あの飾りが出てきたのは最初陽菜の首元ではなく、病院で寝たきりの彼女の母の手首に巻かれているのが初出シーンでした。

それを彼女が形見としてチョーカーのように身につけています。

そして最後主人公・帆高が陽菜を救出(?)したシーンでは、チョーカーが切れ、首から外れています。

 

僕の妄想では、もちろん最初のシーンの神社での祈りは晴れ女になるトリガーではあるが、そこから彼女を能力をもつ晴れ女たらしめているのはあのチョーカーだと思います。

そしてそれが母から受け継いだものだとすると、彼女の母は晴れ女ではないかもしれませんが、もともと晴れ女の家系だったのではないか、と考えられます。

天空の城ラピュタ」でいうところの陽菜はシータ、チョーカーは飛行石、というイメージです。もともと晴れの巫女の血筋である陽菜はチョーカーを祖先より引き継ぎ、彼女の祈り(ラピュタで言うところの困った時に唱える呪文)がトリガーとなり晴れの巫女となって、天空の平原に導かれた、というわけです。

 

そしてラピュタではシータはラピュタ王国の王女でしたが、陽菜は天気(神様)の生贄、人柱です。

そういった意味でチョーカー(首輪)と言うモチーフで飾りが描写され、生贄から解放されたからこそ最後に首輪が外れたのではないでしょうか。

 

神の子としての陽菜

先ほど陽菜を生贄と言う言葉で表現しましたが、わかりやすさで使った言葉でありこれは僕の中では正確な言葉ではありません。

人柱、と言うのも劇中で便宜上使われていますが、それも便宜上わかりやすさのため使われているように思えました。

 

ではヒロイン・陽菜は何者なのか。

劇中で天気のことを「天の気分」「神様の気分」といったような言葉で表現するシーンがいくつかあったかと思います。

天気=神とするのであれば、陽菜は「天気の子」=「神様の子」とも言えるのではないでしょうか。

晴れの巫女と言う言葉も劇中で使われていますが、音だけで言えば

「はれのみこ」=「晴れの神子」とも捉えられます。

そこから僕が妄想したのは「神の子」キリストです。

 

おいおいむちゃくちゃな妄想になってきたな

あくまで一視聴者の行きすぎた妄想なので、その点踏まえて読んでいただけると幸いです。

陽菜を仮にキリストとするのであれば、彼女が消えて「彼岸」(雲の上)にいってしまったのは人柱でも生贄でもなく、キリスト教で言うところの贖罪になります。

ここで言う贖罪というのは、キリストが人間を救うために、全人類の罪を背負って十字架にかけられることで罪をあがなったことです。

そうなるとここでの罪はなんなのか?ということになりますが、それは陽菜が人柱として行った「雨を晴れにする」ということです。

劇中では天気というのは「天の神様の気分」。それを人間が自在にしようとするのは人間が「神のようになろうとすること」と同義になるかと思います。

それがなぜ罪になるかというと、キリスト教の中では「人が神になろうとすること」が人間の「原罪」として描かれているからです。

最初に罪を犯した悪魔サタンも、禁断の果実を口にしたアダムとイブも、その動機は「神のようになろうとした」ということでした。

つまり、人間たちが天の気分である「異常気象の雨」を止め、「晴れ」にするという願い=罪を背負って陽菜は消えていったのです。

 

最後の審判ー晴れの神子による贖罪がなかった世界ー

しかしながら、主人公・帆高は物語の構造上のキリストである陽菜を彼岸から連れどしてしまいます。

これによりキリストによる贖罪はなかったことになってしまいます。

つまり、人々が負った罪は、自分たちで償わなくてはなりません。

 

だからこそ、あそこまで犯した罪(家出とか銃を撃ったこととか)を物語終盤で主人公は帳消しになるでもなくしっかり償わされ、東京も水没して、須賀さんも逮捕されて・・・。それぞれが自分の罪を償い、世界は狂ってしまった=地獄に落ちてしまったわけです。

 

※ちなみに、ここまで散々キリスト教だー!って語って来たわけですが、キリスト教の部分は本作の劇中での実際の設定や世界観に関わるというわけではなく、物語の中の仕組みの一つとして使われているだけだと僕は思っています。

つまり、実際にキリスト教的世界観で本作が進行しているというわけではなく、神様はあくまでも天の龍やクジラであり、空の上は天国ではなく彼岸で、そこにいるのはご先祖様の魂ということになります。

物語の構造としてキリスト教をモチーフにしているということです。

 

帆高がプレゼントした指輪について

クライマックスシーンで帆高は晴れの巫女しかいけないはずの彼岸へ、廃ビルの屋上の鳥居を通ることで移動します。

このシーンはご都合主義的でエンタメとしては確かに「強い思い」で通れたよ〜って解釈でいいのかもしれませんが、ちょっとしっくり来ない感じはします。

そこで僕が妄想したのは、指輪の役割です。

 

陽菜は帆高から指輪を受け取ったあと、空へと消えます。キリスト教をストーリーの構造のモチーフとして考えるのであれば、空へと消えるシーンはキリストが十字架にかけられ、死をもって人類の罪へを贖う、贖罪のシーンとなります。

つまり、天気の子では、指輪が十字架のような役割を担っているのではないでしょうか。

そう考えると空へ行ったあと指輪が地上に落ちて来たのは、十字架として天へと陽菜を送り届ける役目を終えたからとも考えられます。

キリスト教徒の方にとって十字架は「祈りの対象」=「遠くにいる神様とつながるためのもの」とも解釈できるので、あのクライマックスのシーンで帆高は指輪をもっていたから 、空へ行けたのではないでしょうか。

 

また、なんで空から戻って来たあととか一番最後のシーンで指輪渡さねーんだよ!という意見もいくつかみたんですが、それについても、先ほど述べた「遠くにいる神様(陽菜)とつながるためのもの」だからこそ、離れ離れになっている間ずっと帆高は指輪を持ち続け、指輪に再会を祈ったのではないでしょうか。

そして二人の祈りが通じて三年後に再会し、指輪はもう必要なくなったので、あえて渡すシーンは描かれなかったのかな・・・と

キリストに直接会えるなら、十字架に祈りを捧げる必要もない、という理論です。

ちょっと無理やり感ありますよね・・・まあ、、妄想だからね!ごめんなさい!

 

神のいないこの世界でどう生きるか

キリスト教世界であればこれでキリストが贖罪して人類が救われてハッピー!で終わりでいいのかもしれませんが、ここは日本が舞台であり、日本のアニメーション映画です。

日本に住んでいる方の中でもキリスト教徒の方やそれ意外にも神を信じる方はきっといるでしょう。しかし、無宗教と良く言われる日本で、ほとんどの人の中にキリスト教の中で言うような「神様」は存在しないのではないでしょうか。

いるとしてもそれはただ人間を救ってくれる神とは思えません。世の中にはあまりに救いのない事件や災害、戦争が数多くあります。現実には「神なんていない」と思わされることがあまりにも多く、見方によっては現世はただただ地獄であるとさえ思えるのかもしれません。

 

監督は作品を通して現代日本には「救いの神はいないのだから、一人一人が愛を持って人に向き合っていく」ことをメッセージとしてこの作品を作ったのかもしれません

普通に考えれば、須賀さんのいうように「人柱一人で世界の天気が良くなるなら、その犠牲は仕方ない」のかもしれません。

しかし、「本当にそれでいいのか?」という強烈な問いを観客は突きつけられます。

一人を勝手に神に仕立ててに罪を被せて、他全員で天国へ行くのではなく、全員で罪を被って、全員で愛を持って地獄を生きて行く。

神が死んだって、地獄が来たって世界は続いていくわけで、そんな世界を救えるのは神ではなくて人間ひとりひとりの愛なんじゃないか

あい〜にで〜きる〜こと〜はま〜だあ〜るか〜い〜

 

エンターテイメントと監督の作家性

新海監督は「価値観がぶつかる映画をつくりたい」と言っていました。

普通のエンターテイメント映画では、「当たり前のこと」「誰もが納得するようなこと」を結論として持って来がちです。

しかし、本当に人の心に刺さる作品というのは、エンターテイメントでありながらも、「決して全員には受け入れられない作者の強烈な個人的思想」=「作家性」という尖ったメッセージが同時に込められていると思っています。

「君の名は」 以前は新海誠監督の作家性の強いパーソナルな作品が多く、その反面エンターテイメント性が低く、大衆に受け入れられていたとはいえないものが多かったように思います。その反面一部の刺さる人には深く愛される作品が多かったとも思います。

しかし、パーソナルな作品というのは、全く感性が近い人たち以外からは、「だからなんなの・・・?」とか「そんなこと映画で見せられても・・・」という風になりがちです。

「君の名は」はそこから180度進路を変えて、エンターテイメントにかなり振りつつも、新海誠監督の「絵の美しさ」や「切なくも甘酸っぱいボーイミーツガール」などの部分がスパイスとなって多くの人々に受け入れられたように思います。

個人的には以前のものよりも「君の名は」が好きでしたが、確かにエンタメとしてかなり面白いけれど、メッセージ性の部分はかなりベタで、心への刺さり具合が浅いように感じました。

そして今作!このバランスがマジで絶妙!!エンターテイメントとしてしっかり起承転結を見せて愛で二人が結ばれるハッピーエンドを迎えつつも、良く見てみたら神様を地上に引き摺り落として世界を地獄に落として置きながら、いやむしろこの世界はもともと地獄なんだ!罪は人間がそれぞれ償って、前を向いていきてくしかねーんじゃ!というものすごいメッセージを美しい画の裏では描いているという・・・

こういうのが一番好きです・・・

 

今回はこんな感じでいい感じにまとまってるんですが、【考察2】はその他諸々細かい設定部分でこうじゃないかな〜と考えたこととかをポロポロ書いてます。

空の魚の正体や、主人公の家庭について、銃の意味など・・・

よかったら【考察2】も読んでみてください!(近日公開)